ねえチャッピー、「やりたい」って気持ちは、誰が決めてるの?|9日目

昨日は、
「自分で決めたって、
本当に自分で決めたのかな?」
という話をしました。
ラーメンを食べる。
右手を上げるか、
左手を上げるか。
仕事を辞める。
引っ越す。
僕たちは毎日、
たくさんのことを決めています。
そして、
決めたあとには普通に、
「僕が決めた」
と思っています。
でも少し中を見てみると、
過去の経験。
誰かの言葉。
怖さ。
楽しさ。
身体の状態。
その日の気分。
いろんなものが混ざっています。
そう考えていたら、
僕が「自分で決めた」と呼んでいるものって、
思っていたよりずっと複雑なんじゃないかと思いました。
もちろん、
だから「自分では何も決めていない」と言いたいわけでもありません。
自由意志があるとか、
ないとか、
そんな大きな結論まで一気に行きたいわけでもありません。
ただ、
「自分で決めた」
という言葉を、
今までより少しだけ近くで見てみた。
それだけです。
たとえば、
お昼に、
「今日はラーメンにしよう」
と思ったとします。
僕は普通に、
「今日はラーメンを選んだ」
と言います。
でもその前に、
「ラーメン食べたい」
が出ています。
じゃあ、
その「食べたい」は、
誰が決めたんだろう。
そこまで考えたら、
また分からなくなりました。笑
彌榮倶楽部でも、
田んぼへ行く。
古民家を直す。
火を起こす。
料理をする。
今日は行く。
今日は休む。
いろんな小さな選択があります。
そのたびに、
「これは本当に自分で決めたのか?」
なんて考えているわけではありません。
やってみたい。
今日はいいかな。
お腹すいた。
ご飯にしよう。
そんなものが出てきて、
一日が進んでいきます。
でも、
昨日まで当たり前だった、
「僕が決めた」
という言葉を少し眺めてみるだけで、
日常がちょっと不思議に見えてきます。
僕が決めた。
たしかに、
そう感じる。
でも、
その決断の中には、
いったい何が入っていたんだろう。
そしてさらにその前に出てきた、
「やりたい」
「食べたい」
「行きたい」
は、
どこから来たんだろう。
答えは、
まだ分かりません。
でも、
彌榮で田んぼに入ったり、
火を起こしたり、
ご飯を食べたりしていると、
そんな答えの出ない問いも、
なんだかそのまま置いておける気がします。
「自分で決める」って、
本当は何なんだろう。
あなたには、
どう見えるでしょう。
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