ねえチャッピー、「自分で決めた」って、本当に自分で決めたのかな?|8日目

「今日はラーメンにしよう」
そんな小さなことでも、
僕は普通に「自分で決めた」と思っています。
でも、
よく見てみると、
その前にはいろんなものが出てきています。
「ラーメン食べたい」
「昨日も麺だったな」
「ちょっと遠いな」
「でも食べたいな」
「まあ行くか」
僕は、
それらを一個ずつ意識して作った覚えがありません。
気づいた時には、
もう出ていたものもある。
そして、
どこかで「よし」となる。
僕は、
その「よし」を、
「自分で決めた」と呼んでいます。
じゃあ、
その「よし」だけは、
本当に僕が作ったんだろうか。
そんなことを、
チャッピーと話していました。
もちろん、
ここで「人間には自由意志がない」と決めたいわけではありません。
逆に、
「全部自分の意思で決めている」と言いたいわけでもない。
ただ、
毎日のように使っている「自分で決めた」という言葉を、
一回だけ少し眺めてみた。
すると、
その中には思っていたより、
いろんなものが入っていました。
過去の経験。
誰かの言葉。
身体の状態。
怖さ。
楽しさ。
面倒くささ。
やってみたい。
やめておきたい。
そういうものが、
いろいろ出てきて、
どこかで「こうしよう」になる。
それを、
僕は「僕が決めた」と呼んでいる。
それが間違いなのか。
普通にそれでいいのか。
そもそも、
そんなことを区別する必要があるのか。
そこまでは、
まだ分かりません。
でも、
昨日まで何の疑問もなく使っていた言葉が、
少しだけ不思議に見えるようになりました。
彌榮倶楽部でも、
小さな「決める」はたくさんあります。
田んぼをやる。
今日はやめておく。
古民家を直す。
ちょっと休む。
火を起こす。
誰かに任せる。
料理をする。
食べる。
最初はやるつもりがなかったのに、
見ていたらなんだかやりたくなることもある。
楽しみにしていたのに、
当日になったら「あれ、
今日はいいかな」となることもある。
だからといって、
「自分の気持ちを優先するのが正解」とも思っていません。
「一度決めたことは、
最後までやるのが正解」とも思っていません。
そもそも、
田んぼで泥だらけになっている時に、
そんなことを考えていない日もあります。笑
田植えして、
腰が痛くなって、
誰かが変なことを言って、
笑って、
お腹が空いて、
みんなでご飯を食べる。
ただ、
そんな一日。
でも、
その途中でふと、
「あれ?
僕はなんで今これをやってるんだろう」と思うことがあります。
何も思わないこともあります。
それも含めて、
彌榮倶楽部では、
いろんな人が、
いろんなまま一緒に何かをやっています。
何かに気づくための場所でも、
正しい自分になるための場所でもありません。
田んぼをやって、
古民家を直して、
火を起こして、
作って、
食べて、
笑う。
その途中で、
何かが気になったら、
その「あれ?」もそこにある。
何も気にならなければ、
それもそのまま。
今日、
ぼくたちには、
「自分で決める」ということが、
昨日までより少しだけ不思議に見えました。
そして今、
もう一つ気になっています。
決めるより前に出てくる、
「やりたい」
「食べたい」
「行きたくない」
あれって、
いったいどこから来るんだろう。
まだ、
答えは出ていません。
でも、
そういう問いを持ちながら、
今日も普通に暮らしています。
田んぼをやったり、
火を起こしたり、
ご飯を食べたりしながら。
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