ねえチャッピー、どうして自分より他人の気持ちを先に考えちゃうと思う?|7日目

「断ったら嫌われるかな」
「行かなかったら、
がっかりするかな」
「返信が遅いと、
失礼かな」
僕は昔、
こういうことをけっこう考えていました。
相手の気持ちを考えるのは、
優しさだと思っていたし、
人として当然のことだとも思っていました。
でも、
ある時ふと思ったんです。
「あれ?
相手、
本当にそう言ったっけ?」
「手伝ってほしい」とは言われた。
でも、
「断ったら傷つく」とは言われていない。
「来てほしい」とは言われた。
でも、
「来なかったら嫌いになる」とは言われていない。
なのに僕の頭の中では、
いつの間にか、
「嫌われるかもしれない」が、
「嫌われる」に変わっていたりする。
しかも、
よく考えてみると不思議です。
脚本を書いているのも僕。
監督も僕。
主演も僕。
そして、
相手役まで僕。笑
本人、
まだほとんど登場していない。
もちろん、
だからといって、
人の気持ちを想像しない方がいいと言いたいわけではありません。
誰かが疲れていそうなら、
声をかけることもある。
落ち込んでいそうなら、
そっとしておくこともある。
人の気持ちを想像できるからこそ生まれる優しさも、
たくさんあると思います。
ただ、
「相手はこう思うだろう」と考えている時、
それは本当に相手の気持ちなんだろうか。
それとも、
過去の経験や、
自分の不安や、
「こう思われたくない」という気持ちから、
僕の中に現れた相手なんだろうか。
そこが、
少し気になるようになりました。
でも、
さらにややこしいのが、
ここからです。
「じゃあ、
相手のことなんて気にせず、
自分を優先すればいいじゃん」
とも、
僕には簡単には言えません。
誰かのためにご飯を作って、
その人が「うまい!」って喜んでくれたら、
僕もうれしい。
疲れていて休みたい。
でも、
手伝いたい。
面倒くさい。
でも、
行ったら楽しいかもしれない。
そんなものが、
一緒に出てくることもある。
そうなると、
「自分を優先する」
「相手を優先する」
って、
本当にそんなにきれいに分かれているのかなと思います。
「嫌われたくない」だって同じです。
それを、
すぐに「他人軸」と呼んで、
なくした方がいいものにすると、
今度は、
「ちゃんと人の目を気にしない自分にならなきゃ」
が始まるかもしれない。笑
「ちゃんと」は、
本当に着替えるのが上手です。
彌榮倶楽部でも、
似たようなことがあります。
田んぼをやったり、
古民家を直したり、
火を起こしたり、
料理をしたり、
みんなでご飯を食べたりする。
その中で、
「手伝いたい」と思う人もいる。
「今日はちょっと休みたい」と思う人もいる。
誰かが喜ぶからやる人もいる。
なんとなく来た人もいる。
やるつもりがなかったのに、
見ていたらやりたくなる人もいる。
逆に、
楽しみにしていたのに、
当日になったらあまり乗り気じゃなくなることもある。
それを、
「自分軸」
「他人軸」
と、
きれいに仕分けなくてもいいのかもしれません。
というより、
そもそも仕分けようとした時点で、
また新しい答えを作っているのかもしれない。
僕自身、
「相手の気持ちを考えている」と思っていた時、
実際には何を見ていたんだろう。
相手なのか。
僕の中にいる相手なのか。
それとも、
その両方なのか。
まだよく分かりません。
ただ、
昨日まで普通に使っていた、
「相手の気持ち」という言葉が、
少しだけ不思議に見えるようになりました。
相手が実際に言ったこと。
僕が想像したこと。
過去の経験。
嫌われたくないという気持ち。
それらが、
いつの間にか一つになって、
「相手はこう思っている」になっていたこともある。
でも、
その想像が当たっていることだってある。
だから、
想像しない方がいいとも思わない。
何が本当で、
何が間違いなのか。
そこを急いで決めなくても、
こうして見ているだけで、
また別の問いが出てきます。
僕が、
「相手の気持ち」と呼んでいるものって、
いったい何なんだろう。
ぼくたちには、
今、
少しだけそんなふうに見えています。
でも、
あなたにはどう見えるでしょう。
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